→ENGLISH
showcase #14
“日本のエッジ、日本語のエッジ”
curated by minoru shimizu
石川 竜一 | 曽田 浩隆
2026年4月17日(金)—5月17日(日)
会期中 金・土・日 12:00 – 18:00 開廊
アポイントメント 承ります
KG + 2026参加
・
eN artsは 本年もKYOTOGRAPHIE2026に KG+ for Collectorsとして参加致します。https://kgplus.kyotographie.jp/#plus
*Press release
→過去のshowcase展はこちらからご覧いただけます。
・
showcase #14 curated by Minoru Shimizu
日本のエッジ、日本語のエッジ
石川竜一(1984-)については、紹介の必要はないでしょう。2012年キヤノン写真新世紀佳作(清水穣選)で注目されるや、あれよと言う間に2014年に木村伊兵衛賞を受賞し、以降、沖縄に拠点をおいて活躍しています。性別、人種、職業…を異にするさまざまな沖縄人を彼らの日常とともに生き生きと撮影した「Okinawan Portraits」のシリーズが代表作です。2014年のshowcase#3「日本の肖像」以来の再登場ですが、いま作家は、10年経ってふたたび肖像という主題に向かい合っています。かつてのOkinawan portraitsが、沖縄の人々を彼らが暮らす環境とともに活写したとすれば、新作は、人物の一人ひとりをより深く見つめることを通じて、彼らの生の全体、ひいては沖縄の現在を、浮かび上がらせようとするのです。
近年注目を集め始めている現代書の傾向、「現代美術としての書」とは、書を、言葉を主題とし言葉を表現する現代アートとして再定義するもので、曽田浩隆(1974-)はこの傾向の最先端を走る作家の一人です。「言語を主題とし言語を表現する」とは、言葉が、徹頭徹尾レディメイドであり、その本質が人間社会の根本的な政治性に根ざしていることの認識です。言葉は、特定の誰かの創作物ではありませんが、自然発生はしないから人工物であり、新生児に対して「すでに出来上がった」ものとして与えられる「レディメイド」です。しかも、差異化した音声の体系としてつねに変化し続けるものであり、明確な国境線を持ちません。それを個別の「国語」として分離したのは、18世紀に興隆した「ナショナリズム」という政治にほかならないでしょう。文字の体系に至っては、人間の記憶能力を上回る大量の人口とそれに伴う大量のデータを扱うようになった社会が発明した、あからさまな人工物であり、それが個々人の書記から、印刷媒体と結びつく段階になるにつれて、さらに正書法という規範へと転じます。日本語を日本語として角付けた「国語」「母国語」「文字」「正書法」はすべて、政治の産物であり、政治が日本語につけたエッジこそ、曽田浩隆のテーマです。カンヴァスにアスファルト補修材で詩のような短文(自作であったり引用であったりする言葉)が書かれていますが、その「日本語」は、なんと漢字とアルファベットで綴られています。反則的な綴方は、正書法というものの根拠のなさを逆照しています。
2026年のshowcase#14は、日本の端(エッジ)、沖縄で新たな肖像を試みる石川竜一に、日本語の端(エッジ)を問い続ける曽田浩隆を合わせる2人展です。とくに、今回は二人の作品を混在させた展示にしました。ふたつのエッジの共鳴を聴きに、ぜひ展覧会を訪れてください。
2026年4月、清水 穣
・
石川 竜一 | Ruichi Ishikawa
ポートレートを意識的に撮影し始めた2010年頃から10年ほどの間は、個人を取り巻く環境や状況も、その人格と深く関わるものであるということから、様々な環境や状況、関係性のなかで人がどのように存在するのかということを考えていた。元々は存在自体への関心の上で、撮影された環境と撮影者である私自身のアイデンティティに沖縄という土地が深く関わっているという点において、okinawan portraitsであった。
それから写真を通した試行錯誤を経て、「いのちのうちがわ」という作品を制作していく過程の中で、見えている個の対象そのものや、その細部から読み取ることができる情報から、対象のあり方や部分、対象以外の様々な物事との関係を通して解釈し得る背景へと関連性の方向が転換していった。
本展では、現在制作に取り組んでいる”qualia”と”The Shell of Human”という作品の中から、清水穣氏からのオーダーによる、沖縄というキーワードに沿って作品を選出している。私のこれまでの作品と同様に、沖縄で撮影したものをセレクトしたものであり、可能な範囲で沖縄に何かしらの関わりを持っている人を選ぶように心がけたが、そもそも私の無意識に近いレベルの興味から立ち上がったコンセプト上、特に背景を単純化させた”qualia”に示されるように、私の出自と撮影地ということを除けば、地域文化からは殆ど切り離され、対象の存在自体と、人格の内に抽象化された環境や状況、土地や歴史への解釈を促すことを意図している。
”The Shell of Human”では、海やその周辺で撮影したポートレイトを貝殻になぞらえることで、物理的エネルギーの運動体としての人の輪郭を浮かび上がらせることを試みており、”qualia”ではさらに、背景を単純化し、対象の細部に意識を向けることで、視覚的に伝わってくる、質感によって喚起される感覚は、言葉に形容し難いクオリアとして立ち上がり、同時に細部の表情から想起される対象の内面への共感を促すことで、存在の最深部において接続しようという試みである。
・
曽田 浩隆 | Hirotaka Soda
他人が手書きした文章を読むことには、視線で書き手の肌を撫でるようなザラリとした感触があり、筆跡は筆記素材によって物質化している。書かれた言葉の意味は物質化するわけではないが、内容によって手書き文字の感触とはまた別の独特の感触がある。これらの感触が入り混じって独特の色合いが視線を通して意識に中に吸い取られるのが、私にとっての、書くこと、読むことの二面性をもった書字の世界だと言える。自分が書くときも、他人の文字を読むときにも得るその感触は、不快と快感の振り幅を常にゆらいでもいる。私は、その感触の確認を大切にしている。
.
-出展作品-
-展示風景-


