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水の中のナイフ

松原健個展

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knife in the water #1

水の中のナイフ
松原 健 個展

2008年5月2日(金) – 5月31日(土)
会期中 金・土・日 12:00 – 18:00 開廊
オープニングレセプション : 5月3日(土) 18:00 – 20:00
アポイントメント 承ります

2008年5月、eN artsでは、松原健個展「水の中のナイフ」(全作品新作)を紹介致します。

これは何だろう?
何故、この組み合わせなのか?
そのような日常的、常識的な疑問を投げかける前に、「直感」に耳を傾けて下さい。「好き?それとも、嫌い?」
知識・常識・法則・しがらみをすべて解き放って、本能で向き合っていただきたいのです。

松原健と我々鑑賞者の共通項は「人間である」という事実のみ。
我々は、年齢、性別、生まれ、育ち、教育、生活環境、すべて異なる個々です。容姿は勿論のこと、価値観、嗜好、どれをとっても、似通うことはあれ、決して同一ではありません。しかし、人類として抱える共通の無意識の中に存在しており、「火は熱い」「氷は冷たい」などの、からだに刻み込まれる記憶や、事物・現象に関する記憶を共有しているのです。

松原健が彼自身の記憶の欠片を集めて表現した作品に、全く異なる貴方の記憶が重なり、新しい記憶として発展する。
そしてその時、彼の美術表現は、貴方のこころに深く刻み込まれることでしょう。

美術を通して得られる新たなよろこび・・・・・ 感じて下さい。

ロウ 直美 | eN arts

水の中のナイフ

星屑のごとくちりばめられた
記憶のかけらを拾い集めて
あなたは、水の中のナイフのように
怪しいきらめきを放ちながら
静かにゆらゆらともがくように
沈んでゆく

記憶のかけら

人間の記憶は常に断片的なかけらの集まりで、それぞれのかけらには直接的な関係が無いことがよくあります。
私の父が死んだ日を思い出す時、いつも必ず同時にマクドナルドの赤い看板が脳裏に浮かんできます。父が老衰で入院していた数年目のある日、今日は覚悟をしたほうがいいとの兄かわの電話で病院へ向かったその日に、駅前で立ち寄った、少し暗い気持ちで見上げたマクドナルドの赤い看板が目に焼き付いています。それ以来、父の死んだ日の記憶とマクドなるとの赤い看板は、常に私の中でセットになっているのです。
人間の記憶は、このように不連続で無関係な断片が集積したものとしてあります。

又、この記憶のかけらを集めていくと、遠い過去へと垂直に辿っていくころが出来ます。
わたしの飼っているラブラドールレドリーバーは、河原など広い所に散歩にいった時にはリードを離してやるのですが、面白い事に決して遠くへな勝手に走っていったりはしません。ただひたすら、私がボールを投げるのを待っているのです。リードから解放されてどこへ行くのも自由なのに、ボールをとってくる事にしか興味を示しません。これは、私が教えた訳ではなく、生後4ヶ月の子犬で我が家にやってきた時から、ボールを投げると取ってくるという行為をただひたすらくり返していました。私の犬は、遠い昔の祖先が獲物を主人に持っていくという喜びの記憶を、DNAによって何世代も受け継いでいるのです。又、一方でこの記憶は未来の子孫達にも受け継がれていくわけです。ということは、記憶は過去をさかのぼるだけでなく同時に垂直に未来にも繋がっていくものなのです。スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」に出てくるモノリスという不思議な物体が過去、現在そして未来にも出てくるのはそうした記憶の連鎖を暗示しているのではないでしょうか。そして、これらの記憶の連鎖はやがて、蛇が自らの尻尾を食べていくウロボロスのように、ぐるっと、ひとまわり、未来から過去に繋がっているのではないかと思うのです。

人種や文化の違いにもかかわらず、同じ人類が抱える共通の記憶があります。火や水等の元素に対する原初的な記憶はもちろん、事物や現象についての様々な記憶を、我々人類は共有しているのです。美術の可能性は、言語や人種の壁を越えて共通する記憶によって表現を共有することができるということです。私は、こうした美術の可能性によって人類今日ルウの記憶を掘り起こし、また、それらの記憶のかけらを繋ぎ合せることによって異なるイメージが科学反応を起こすように、全く新しい記憶を作り出して、干渉さhが日常の記憶から解放され、この地上から少しでも浮き上がることが出来ればと願っています。

松原 健

PRESS RELEASE
CV

-出展作品-

-展示風景-