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showcase #7 “写真とスキャン PHOTO & SCAN”

グループ展

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showcase #7
 写真とスキャン PHOTO & SCAN”
curated by minoru shimizu

澤田 華  滝沢 広

2018年5月11日(金)—6月10日(日)
会期中 金・土・日 12:00-18:00 開廊
オープニングレセプション:5月11日(金)18:00-20:00
アポイントメント 承ります

ご協力:rin art association

eN arts では、清水穣氏のキュレーションによります、写真・映像に特化したグループ展 “showcase #7” を開催いたします。展覧会のタイトルが示す通り、写真及び映像の現代若手作家の「ショーケース」となるこの展覧会は2012年からスタートし、本展がシリーズ7回目の展覧会となります。 “showcase” 出展作家の多くは キヤノンが主催する公募展「写真新世紀」受賞作家の中から選ばれます。今回は、2017年度優秀賞受賞者 澤田華と2011年度佳作受賞者 滝沢広のお二人が副題の”写真とスキャン”という括りによって選出されました。日常生活においても普通に見聞きするありきたりな二つの単語ですが、清水氏の解釈するところによる「写真」と「スキャン」が 澤田、滝沢 両氏の出展作品においてどのように関わりあっているのか・・・御高覧下さい。

ロウ 直美 | eN arts

*Press Release

→過去のshowcase展はこちらからご覧いただけます。

showcase #7 “写真とスキャン” curated by minoru shimizu-

芸術のデジタル化は、コンピュータの処理能力に応じて、まず1970年末から80年代初頭に、データの軽い音楽のジャンルで顕在化し、さらに物理的記録媒体からネット配信のダウンロードへという潮流に乗って、加速度的に写真へ、そして動画へと波及してきました。21世紀も10年代に入ると、デジタル写真は従来のようなアナログ写真への擬態を止め、わたしたちはアナログ写真に基づく写真観 —ストレートとピクトリアル(画像加工)、痕跡性の有無、平面と立体、静止画(瞬間)と動画(持続)といった二元論が端的に通用しない世界に来ています。

かつて坂本龍一は、音楽のデジタル化につれて「耳が変わってしまう」と述べました。すべてコンピュータ内で制作され、一切のノイズ(作曲者の望まない音響)を廃した純粋状態でそのままネットにアップロードされる音楽とは、聴衆がそれをスピーカーで聞くまで一切空気に触れない、言わば真空パックの音楽です。真空パックに慣れた耳は、どんな音響もスピーカーやイヤホーンの膜の振動に還元された状態で聴くのですから、音をライヴで聴く耳に比べてかなり貧しい耳ということになるでしょう。

映像の世界にも、jpgやgifに慣れた「貧しい眼」の時代が訪れているのでしょうか。アナログ写真とデジタル写真という問題設定においては、「写真」と「スキャン」という対比がよく見かけられます。ここで写真の視覚とは「像」による視覚のことです。レンズに密着しては像ができませんから、像は必ず何かしらの空間性を要求します。物体から出た光を、レンズ(誰でもない者の視点)を通して1枚の面上(レイヤー)で結像させ、その像を光化学的手段で定着したものが写真です。写真を「見る」人は、レンズの位置に眼を代入して、その「像」を知覚する。誰でもない者の見た「像」と、誰かが見る「像」の落差から、「かつて」と「いま」という時差が発生し、現実や意識は分裂して二重化します。この分裂が写真的視覚の特徴です。これに対してスキャニングは、原理的に「像」による視覚ではありません。それは空間的な結像ではなくて、距離を超越した密着的・触覚的な被写体情報の感受です。二次元画像を出力するとしても、その画像の単位はもはや投影面(レイヤー)ではなく線(ないし点=ピクセル)であり、そこには投影の空間が入っていません。つまり真空パックの画像と言えるでしょう。

真空パックの画像、jpgやgifで出来た映像世界で、「デジタル・ネイティヴ」な現代の作家たちはどのように「豊かな眼」を実現するのでしょうか? 不可逆的な全面的デジタル化のなかで「写真」と「スキャン」はどのように関わり合うでしょうか

出展作家紹介:
滝沢広(たきざわひろし1983年生)は2011年度キヤノン写真新世紀佳作受賞(清水穣選)。
2013年のshowcase #2以来、内外で活発に活動を続けており、5年ぶりの再登場となります。画像を載せているレイヤー自体は非物質的です。だからアナログ世界では画像は結局は紙やフィルムという物体として存在するほかはありません。滝沢は、「写真」のこの結果としての物質性と、「スキャン」の原理的な非レイヤー性を重ね、いわば真空パック画像に空気を入れるのです。凸凹した存在する世界をハンドスキャナーで強引に手動でスキャンするので、画像一面にノイズが現れます。またその出力を写真に撮り、それをシートに印刷しあえて皺を寄せてマウントします。ノイズや皺は制作行為の痕跡であり、つまり作者の生きた(ライヴの)時間や身体の痕跡となります。

澤田華(さわだはな1990年生)は2017年度キヤノン写真新世紀優秀賞(Sandra Phillips選)。
インターネットで出会う画像はすべてスキャンされた画像、真空パック画像です。ここで澤田は、写真とは「かつて存在した何か」の写真であるというあの時差につけこみ、真空パックを切開し、現在可能なデジタル的手法を駆使して、ぺちゃんこになった画像を三次元に復元することで、「かつて存在した」時間へと遡行しようとします。しかし「かつて存在した何か」を作者自身も信じているわけではないのです。全体は懐疑的な遊戯性に満ちており、むしろ「かつて存在した何か」から完全に切れてしまった現在の画像のあり方を浮かび上がらせます。

2018年5月  清水 穣

清水 穣(しみず みのる)
写真評論家、1995年『不可視性としての写真ージェームズ・ウェリング』(ワコウ・ワークス・オブ・アート)で第1回重森弘淹写真評論賞受賞。以降、定期的にBT美術手帖、Art Itといった媒体や写真集、美術館カタログに批評を書いている。主な著訳書に『白と黒で:写真と』『写真と日々』『日々是写真』『プルラモン』(現代思潮新社);『ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論』(淡交社)、『シュトックハウゼン音楽論集』(現代思潮新社)など。これまでWolfgang Tillmans、森山大道、杉本博司、松江泰治、柴田敏雄、吉永マサユキ、安村崇といった写真家たちの写真集にテキストを提供している。

澤田 華

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近年制作している「Gesture of Rally」シリーズは、ノイズとして排除されてしまうような写真の不鮮明な細部を起点とし、分析・検証を繰り返しながらイメージの誤読を重ねることで、「写されたもの」の認識を問う作品である。

「Gesture of Rally」(ラリーの身振り)という言葉は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『欲望』のラストシーン、パントマイムでテニスの試合をする人たちを写真家である主人公が眺める場面から着想を得ている。

この映画の中で主人公が、自分の撮影した写真に死体のようなものが写っていたのを見つけたように、わたしは古本に載っている写真の中に勝手に事件を見出していく。写真に小さく写り込んでいた正体不明の物体を巡って繰り広げられる不毛なラリーは、答えを宙づりにしたまま、延々と繰り返される。

滝沢 広
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【展示ステートメント】
今回の展示シリーズは”Avalanche”で雪崩という意味である。今回使用した素材は作者不明の雪山のポスター写真であった。ポスターと言っても、おそらく90年代に売られていたであろうお土産用の代物で、現代においてよく見られるぺらぺらとしたものではなく、裏地の厚紙もしっかりとした銀塩プリントで施されたような高級感のあるものであった。その雪山のポスターの表面をハンディスキャナでなぞることをした。つまり、雪山で起きている雪崩の現象を雪山の写真の上で同じ行為を施したということになる。ハンディスキャナは速度やズレによって、イメージの読み取りが追いつかない時がある。その場合データはエラーを起こし、その結果ノイズや歪みとなり現れてくる。そのノイズや歪みがまるで雪崩のようにみえるということである。本来は単なる雪山の写真がハンディスキャナのエラーによって、岩肌を滑り落ちていく雪崩のような現象が視覚的に再現されていることは理解できるが、それは果たして何を見せられているのだろうか。

人間は本来視覚的に見ているつもりの情報は、脳内で補正され修正された状態で認識されている。錯視やマジックはその手の脳が勝手に思い込み、補完している情報誤差を巧みに扱ったものであろう。つまり、普段我々はノイズや歪みを認識しないまでも、見ているということになる。そのノイズや歪みを視覚的にフラットな平面作品の中で知覚できるようにした作品でもある。補完前の脳の状態をrawの状態、つまり「生」の状態で現前に現れているのが”Avalanche”である。

【アーティスト・ステートメント】
砂利、岩肌、建築用の石材やコンクリート、ホテルの一室で撮影したシーツのしわ。被写体は、固有性を奪われた一塊の質量として捉えられています。素材に凝縮したテクスチャーや時間の謎に向き合い、痕跡のモニュメントとして新たな層を引き出す滝沢の写真は、ものが雄弁に語る大量の記録をアーカイブしつつ、一方でそれを印刷し、スキャンし貼り付け、撮影を繰り返すことで、イメージの属性を凶暴に取り除いています。形のないデジタルメディアから逃れるように、壁や柱、空間の一角などあらゆる支持体に固着したイメージが、作家の手によってさらに加工され、ときにボリュームを生じる構造体として組み替えられる。情報としてのイメージを物質化する滝沢の作品は、人工と自然、時間と空間、実像と虚像、二次元と三次元と、あらゆる境界を横断し独自の制作言語を構築しています。

-出展作品-

-展示風景-