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法貴 信也 個展

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法貴 信也 個展

2015年11月1日(日) – 11月29日(日)
会期中 金・土・日 12:00 – 18:00 開廊
オープニングレセプション : 11月1日(日) 18:00 – 20:00
アポイントメント 承ります

協力: TakaIshiiGallery

法貴のペインティングは 線、汚れ(レタッチの白)、白色という三つの要素で構成されています。これまで、線 の修正や汚れのレタッチに使った「白」を敢えて残し、その「白」が特異な働きをする「白の言語化」を意識し ながら制作してきました。本展では、青緑色をおく→青緑に呼応する形で、茶系と濃紺による2色の線が 乗る→余白となるところを中心に白が乗る、という手法により「白が線を食う=積極的な白の言語化」を実 現した新作群を発表致します。線・汚れ・白が三つ巴に鬩ぎ合う、迫力のペインティングを御体感下さい。

ロウ 直美 | eN arts

白い紙に鉛筆で線を描く。描いた人が気にいったものになおすために消しゴムを使うと生まれる3つのもの、そ れは紙(地)、線、そして汚れだ。

一度も間違えなければ、あるいはとても上手に消せれば、汚れは確かめられない。みえるのは線と地という対立 だけだ。汚れとは、つまり線になれなかったなにか、または地に戻れなかったなにかであり、そしてまたそれは 地と線を緩やかにつなぐ緩衝となる。

ニュートラルな白(地)にバイアスをかけようと、3年ほど前、拭き取った跡を絵に残してみた。これは、地/ 線の対立をさしあたり無効にするために汚れという緩衝を設けるという苦肉の策、方便だったのかも知れない。 そして、去年より制作に取り入れた「白の言語化」という考えは、線の修正や汚れのリタッチに使った白の跡を、 意識的に描いたものに読み換えていくことだった。白で線を修正してみても、それほどにきれいに消えるわけで はないので、おのずとそこは汚れになる。また緩衝の汚れを打ち消すためにのせた白は、下の汚れが隠れきると、 白の上の白という重複、ムダにみえた。

こうして汚れは徐々にバリエーションをもつようになり、おのずと作品には前よりも多くて複雑な手の跡が残る ようになった。しかし白は元に戻すことであり続け、線はただ描くことであり続けた。と同時に、汚れは緩衝の ままだった。

「無敵」を超える 描く、消す、そして消し(または描き)損ないである汚れに触発され、絵は進む。描くことと消すことを意識的 と呼ぶなら、汚れは無意識と呼ばれるものに近いはたらきをしていたと思う。ただ、本当の無意識はこんな意図 と意図のすきまや影をさししめすものではないだろう。それでもこういったものを無意識と呼ぶことが多いのは、 それが「無敵」になるための便利な方便だからだろう。

この場合の「無敵」とは、たんに失敗をしない、または判断を棚上げできるという意味であって、完璧な腕力や 能力があるということではない。たとえば、白い立方体の横に黒い立方体をひっつけておき、その間をグレイの 帯でグルリと巻く。そうすると、もともとの白と黒の対立はなぜか安定したつながりにみえてくる。ほんの僅か であっても、対立はグレイが挟まることで解消したかのようにみえる。本当ならぶつかるはずのものがつくるダ イナミズムを感覚的に否定し、2つが手を取って行き交うようにみえる出口のない世界。これがつまり便利な「無 敵」なのだ。

汚れが緩衝やバッファだと、絵が閉ざされる。そうならないようにするにはひとまずは線と白(地)と汚れがジ ャンケンのように「三すくみ」となることだ。それぞれの役割が明白にある上で、実際そこになにがあるのかに よって結果が決まるもの。いま一番理想とする自分の絵のあり方はそれだ。線と汚れと白はひとめでそれとわか るにもかかわらず、それがなにであるかは、それぞれの絵ごとに、もっといえば場当たり的に決まっていくもの。

白と黒の立方体の間のグレイを異物と考えるということです。

法貴 信也

PRESS RELEASE
CV

-出展作品-

-展示風景-